魂のある者として・・・
はるか昔、キリスト教の人たちは、動物や植物は「魂」を持って無いと考えていた。
魂を持っているのは、「神」に最も近い我々人間だけであり、あんな知能の低い者どもが我々と同じような「魂」など持っているはずが無いと。
キリスト教は、この世界の全ては「主」が作り出したと言う考え方である。
星も、木々も、動物達も、人間もそれら全てを産み出したのは主である。
そして、その中で人間にのみ魂をお与えになられた。
だから、動物や植物を崇めるような宗教の人たちに対して、そんな魂を持って無いような物を崇めるのはいけない宗教なのですよ、と説いてまわったそうだ。
樹木を崇めていた人たちに、主の教えを説くために一番はじめにやった事は、彼らが「ご神木」として崇めている木を切り倒す事だった。
画家であり、動物記で有名なシートンが、オオカミを題材にして描いた「大自然の勝利」と言うタイトル(だったと思う)の絵が多くの人に非難されたのだって「獣に魂なんて無い」と言う考え方の人が多かったからだ。
ダーウィンの進化論がなかなか受け入れられなかったのもこの辺りに理由があるらしいしな。
そして・・・魂を持ってる我々人間は、魂を持って無い者達に対して「何をしても良い」と考えていた。
それでまあ、乱獲して種を絶滅させたり、無茶な交配とかしたりしたわけだけど・・・
この、魂を持ってる者は人間のみ、と言う考え方を聞いて、多くの人は「それは間違いだ」と思う事だろう。
今日、生けとし生ける者は皆、意思を持ち、魂を持って生きていることは常識である。
でも・・・動物や植物が魂を持ってる事を「意識」する事があるだろうか?
それらを「命」としてでなく「物」として見ている場合がほとんどでは無いだろうか?
例えば
「今年は野菜やさんまが高いわねえ~」
「今日はお肉が安くってよ」
「イベリコ豚って高いよなあ・・・」
「ミニチュアダックス人気があるだけあって高いな~」
と、値段が高いとか安いなどと、動物や植物を店で売っている「物」として見ている場合がほとんどではないか?
3億あればキリンとかゾウが飼えるなんて言う宝くじのCMもあったしな。
動物に魂があると言う意識があれば、動物園やペットショップで動物を見たら「可愛い」よりも「可哀想」が先に来るはずだ。
家族と無理矢理引き離されて、こんな遠い国に連れて来られて、あんな所に閉じ込められて「可哀想」とね。
それを見て可愛いと思えるのは、動物には、それを「辛い」とか「苦しい」と思う感情が無いと言う思いがあるからだ。
だって、もし自分なら遠い異国から連れて来られて、あんな所に閉じ込められて、見世物にされて一生を送るなんて絶対に嫌だからな・・・
ま、いちいちそんな事を考えていたら生活なんて出来ない。
・・・でも・・・
一年に一度、動物愛護週間の時くらい(今年は9月20日から26日までだったが)、そういうことを考えてもいいのではないか?
その動物愛護週間も、犬のしつけ方とか、動物の飼い方教室とか、そういうぬるい事しかやりませんな。
動物愛護とかほざくなら、この国の動物の現状を、もっと多くの人に訴えるべきだと思うのだが・・・
これだけ多くの動物(30万頭以上)殺処分してる国・・・お店で犬猫などの動物を店で売るという事が許される国・・・そんなことを許してる国に「動物の愛護と適切な管理」とか言われてもね・・・
そういうことを許しているから、無責任な飼い主がたくさんいるんじゃないのか?
本当になんとかしたいのなら、法律から見直すべきだと思う。
肉にせよ、魚にせよ、野菜や果物にせよ、動物にせよ、それらは確かに店で売られている物であり、お金を出せば買える「物」だ。
でも、その前に、彼らにも魂がある、もしくは持っていた者たちであるということは忘れないようにしたい・・・
人間以外の者には、何をしてもいいという考え方は、けっこうまかり通ってるんじゃないか?と思う今日この頃・・・
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