2018年5月28日 (月)

壁と勇気

ある人がスパルタの城市を見て驚いた。

大抵の城市は壁で囲まれてるのだが、スパルタの城市には壁が無いのだ。
それに対して、スパルタの兵は言った。

兵の勇気で守られてる城市、は、無防備とは言えない。

と…。

なるほどな~と思う。

俺らの普段の生活でもそうだものね。

ベンツとか、ロレックスとか、シャネルとか、皆が“良い”と思ってるモノで固めて相手に好印象を持ってもらえるか?と言うと、案外そうでもない。

高級ブランド品は高いけど、買うのに勇気は必要ないから。

むしろ、勇気のある選択肢を選べる人の方が、好印象を持ってもらえやすいように思う。

例えば俺の場合、60万円ほどする望遠レンズを持っている。

これで、例えば小学校の運動会の写真を撮って、息子の同級生の親御さんにあげたら、大抵の人は俺のことを覚えている。

あそこの旦那さんは写真が上手で、ウチの子にだけピントが合った写真が撮れる。

とか言われたりして。
…ま、そんなもん俺が持ってるのと同じレンズを使えば誰でも撮れるんだけど(笑)

同じ60万を使うなら、腕時計とか、ブランド品とか、車をカスタマイズするなどの選択肢もあるし、実際それらを選らんでる人の方が大多数である。

60万円の腕時計をしてる人は多いけど、60万円のレンズ持ってる人はそんなにはいない。(サーキットとか航空のイベントなどに行くとたくさんいるけど)

俺がどうして60万円のレンズ(200mf1.8)
それは、周りによく思われたいから、ではなくて、被写界深度の浅い写真が撮りたかったから。
自分が“こう撮りたい”と思う写真があって、そのレンズを選んだ結果、周りに好印象を持たれるようになったというわけだ。

自分がこれをしたいからこれを選ぶとか、この人のお店が好きだからこの人のお店に行くとか、この車が好きだからこの車に乗るとか、自分の理想とか、“好き”と言う気持ちに対して素直に物を選んだ方が、好印象を持たれやすい。
と、個人的には思う。

もちろん、ベンツとかロレックスとかシャネルとかを持ってる人にだって、本当にそれが好きで持ってる人もいる。
でも、人から良く見られたくて持ってる人も多い。

だからこそ、好きで持ってる人と見栄で持ってる人は見分けられやすいし、“ああ、こいつは見栄で持ってるだけだな。”と思われてしまうと、イメージは決して良くない。

人から良く思われたくて何十万円の買い物をしても、好印象を与えるどころかイメージダウンにつながるとしたら、なんとも皮肉な話ではある。

皆が“良い”と言ってるモノで身を固めるより、自分が“良い”と思ったモノを選んだ方が、人生は楽しいし、好印象も持たれやすい。

兵の勇気で守られてる城市は無防備とは言えない。

と同じように

自分の“好き”で囲まれてる人生は無防備とは言えない。

のだ。

周りに見せつけたり自慢したりするために物を選んでる人がいるとしたら、とても悲しい人だと思う。
で、人が選んだ物をとやかく言いたがるのは、周りが“良い”と言ってる物しか選べないような人たちだったりするんだよな~。

2018年5月26日 (土)

何歳であろうと女の子は刺激的

こないだ、自転車のタイヤに空気を入れようと思って、しゃがんだ状態でタイヤのキャップを外してた。

外してたら、上の方から呼ばれたので声をした方を見上げてみると…太ももと白いパンツがもろに目に入ったので慌てて目線をさらに上に上げた。

声をかけてきたのは、スカートを履いて自転車に乗った、次男(小学校2年生)の同級生の女の子だった。
とても人懐っこい女の子で、二言三言話したんだけどそれはさておき…。

幼い女の子が連れまわされる事件などがあると、その犯人は異常な変質者みたいな報道がされる。

でも、いくら幼くても、女の子は刺激的だと思う。
少なくとも俺は、小学二年生のパンチラを見てどぎまぎしてしまった。
それはつまり…その娘をそういう目で見ていたということだ…あんまり認めたくはないけど。

性的には満たされてる俺でさえ、こんな風になるんだから、欲求不満の男性なら、

ちょっと誘いをかけて連れまわしてやろう。
と思っても、おかしくないと思う。

そこまでの変態じゃなくても、だ。

そう考えると、女の子を変質者から守るのは、たやすいことじゃないなと思う。

幼い少女の誘拐は、一部の変質者が起こす事件というわけでは、どうやらなさそうだから…。

誘拐に限った話じゃないけど、誰だって条件がそろえば、罪を犯してしまうものだと思う。

罪を犯すのは、鬼でも悪魔でもなく我々と同じ“人間”だしな。

…ま、そんなん、あんたがそう思い込んでるだけだと言われりゃそれまでだけど。

それにしても、パンツを見られて恥ずかしいと思うようになるのって何歳くらいからなんだろうなあ…。

2018年5月23日 (水)

スパルタの剣

ある国の王が、スパルタの剣が短いのを嘲った。
それを受けて、スパルタの王は言った。

「だがこの剣は、相手に届くのだ。」

と…。

またある時、ある国の王が、スパルタの城市に城壁が無いのを嘲った。
スパルタの王は言った。

と…。

嘲りに対する鮮やかな切り返しに…しびれた☆彡

と、同時に、この言葉は、
大事なのは中身だ。

と言うことに、改めて気付かせてくれる。

俺には、人をときめかすルックスも無いし、給料だって安いし、学歴だって低いし、パッとしない奴を絵に描いたような奴だ。

だが、“俺”の印象は、相手の記憶に残るのだ。

これ見よがしに自分のことを見せつけようとしなくても、ていうか、素直な自分をありのままに見せた方が、相手の印象に残りやすい。と思う。

ま、それをやるには、見せられる自分、とか、伝えたいと思うこと、があるというのが前提だけど。

で、“自分”を伝えるのに、大げさな物は必要ない。

自分を伝えるのに必要なのは、大げさな自慢話とか見せつけとかではなく、日々積み重ねている経験とか、深めている思いとか、磨きぬいた言葉とか、素直な自分を見せる勇気。だと思う。

スパルタの兵だって、相手の懐に飛び込む勇気があるからこそ、短い剣に自信を持てるのだ。

自分の未熟さを、物とか、安易な自慢などでごまかそうとする人より、自分の未熟さを素直に見せられる勇気のある人の方が、好印象を持たれやすいと、個人的には思う。

 

なので、自分の持ち物をやたら自慢するもんじゃないし、自分がせっかく選んで手にしたものを恥じるべきでもない。

持ってるモノが立派かどうかで、自分の価値が決まるわけじゃないのだから。

大事なのは、自分がどれだけの物を持っているか?ではなく、自分がどんな人間か?だ。

自分が魅力ある人間であれば、自分の事は相手に伝わる。

と、俺は思う。

それにしても…“いじり”、て結局、嘲り、とか、からかい、とか、おちょくり、を、ちょっと綺麗にしてみました、みたいな感じの言葉だと個人的には思う。

“いじり”とか“おちょくり”とか言えばなんだか許されるような気がするけど、“嘲り”とか“からかい”となると、許せることではない。

“いじり”という言葉が流行ると同時に、“嘲り”とか“からかい”とか“おちょくり”という言葉が影を潜めたような気がする…。

2018年5月21日 (月)

男って…

こないだ、ある人がふと、

男って弱いよね。

と、ふと言った。
というのが、失恋が原因で自殺した男という話は聴いた事あるけど、その逆は聞いた事が無い。
ということだったんだけど、言われてみて、

確かに。

と思った。

そーいやそうだよな~。

男は支配欲が強い傾向にあるとしたら、自分の支配下にいた女が自分の元を去っていく…そのうえ、他の男の元に行くとしたら…それはなかなかショックが大きいだろう。
その“支配”がずっと続くと思い込んでいたなら余計に…。

例えば大金持ちが急に貧乏になったからと言って金銭感覚を修正するのが困難なように、“支配下”にいたと思い込んでいた女が自分の元を去る。という現実を受け入れるのもまた、困難なことなのかも知れない。支配欲が強ければ強いほど…。

別れ話を切り出されて、元彼女に暴力をふるったり或いは殺してしまう人も、自殺してしまう人も、多分だけど、彼女に対する“思い上がり”があるんだろうな~。とは思う。

こいつはずっと俺についてくるに違いない。

なんて思い込んでるから、いざ別れ話を切り出されるとそうなってしまうような気がする…。

そうならないために、普段からパートナーは大事にしていたいものだ。

男女関係に限らず、上から目線で偉そうにしてる人って、メンタル弱い人がほとんどだからな~…。
自分を強そうに見せたがるのは、結局自分の弱さをさらけ出しているだけだから…。
本当に強かったら、“強そう”に見せかける必要もないからな~。

で、そういう事に関しては、女性はかなり敏感だと思うし…。
だから、強がりとか、かっこつけとか、そういう見せかけって返って逆効果なんだけど…でも、ついそれをしてしまう気持ちは…わかる(笑)

余談だけど、嵐の、松本潤の事を、まつじゅん、と略すのは知ってたけど、最近は、J、と略すらしいというのは知らなかった…。

J、と言えば、魁!男塾に登場するあいつを思い出すのは俺だけじゃないはず…。
フラッシュピストンマッハパンチとか…懐かしいな~…とか言いながらあんまり見てなかったけど…。

あと、レッツ&ゴーというミニ四駆のアニメでもJっていたな~。
確か土屋博士の助手をしていたっけ。

それにしても、“じゅん”と呼ぶのと“ジェイ”と呼ぶのって音数としては同じだよな~…とか、どうでもいいことをふと思ってしまう俺だった☆彡

2018年5月18日 (金)

たいした腕もないくせに…

職場に、趣味でテニスをやってる人…仮にAさんとしよう…がいる。

そのAさんに、ある人が

ガットって今どのくらいするの?

と訊ねると、Aさんは
700円くらいからあるけど、僕は7000円くらいのを使ってる。

と言うと、訊ねた人は

そんなにするん?Aさんの腕にはもってーねかろ~?(もったいなかろう。の意)という冗談を飛ばしたのだが…あまりにも…デリカシーが無いと思う。
ちなみにその人はAさんのプレーを見たことは無い。

良い物を使ってるというと、

たいした腕もないくせに…

的な冗談とか、ひどい場合には悪口を言う人がたまにいる。

お金の使い方を間違ってる。

とか

もっと有意義な事に使ったら?

とか…
その人の理想があって、その人がその理想に近づくためにいろいろ吟味した挙句それを選んで、それで楽しんでる。
そういう人に対して、ねぎらいとか、励ましとかではなく

その腕にはもったいない。

という冗談が先に来る人は、心の貧しい人だと思う。悪気はないにしてもね。


ま、当のAさんは笑って受け流してたから俺がとやかく言うことではないのだけど…なんかむかついたので日記に書いてみた。

そういう俺も、そういう事言われたことあるから。

一眼レフカメラ買ったと言ったら

そんな高いカメラ買ってどうするん?

的なことを言われたり、S2000乗ってるというと

エンジン上までよう回すん?

とか言われたり…。

なんていうのか…多くの人とは違うお金の使い方をしたというと、馬鹿にされるというか、デリカシーのない言葉を浴びせられることがあるのはとても残念なことだ。

自分の価値観ではありえないお金の使い方をした人に対してデリカシーのないことを言う人は、

自分は了見の狭い人間です。

と言ってるのも同じである。

デリカシーの無いことを言う…つまりは上から目線で言葉を浴びせかけることで、会話の主導権を取ったつもりになって、自分は話し上手、だと思い込んでる人がいるとしたら…とても哀れな人だと思う。

俺は、たいした腕もないのにS2000乗ってるし、たいした腕もないのに良いカメラを持ってる。
で、それらを使って人から“すごい”と言われたことは…あまりないけど(全くないわけではない(笑))それがきっかけとなって人とつながったことはある。

こんなことは言うまでもないけど、“好き”ていうのは、それだけでとても尊く、価値のあることだ。

でも…それがわからない悲しい人って、案外多いんだよな~。

2018年5月17日 (木)

平和とか自由とか

ジョン・スタインベックが脚本を手掛けた映画、革命児サパタで、自由と平和について語られるシーンがある。
 
自由とは?食べられること。
 
平和とは?安らかに眠れること。
 
この明確な言い方にしびれたのを覚えている。
 
自由とか、平和とか、愛とか、幸せとか、それがなんなのか?なんとなくわかってるつもりではいるけど、結局は分かってない人がなんと多い事か…。
いや、わかってないだけならまだいい。それらについて考えることもしなければ、語り合うことも無い。
 
愛だの平和だのという言葉を口にしただけで“イタイ奴”に思われかねない。
俺からしたら、有名人の収入だの不倫だのについて語る人の方がよっぽど“イタイ”のだが、そんなことを会社などで口にしたら生きてはいけない(笑)
 
そんなわけで、どうでもいいことについてはみんなよく知ってるけど、本当に大事な事については知ろうとしないどころか、考えようともしない。
それじゃあ、幸せな人生は送れないよな~と思う。
 
少なくとも俺は、それらについて少しは考えるようにしている。
 
俺にとって“愛”とはつまり、その人とつながっていたいと思う事。だ。
 
人を愛するということは、その人とつながっていたい。と思う事。
 
愛する人とつながっていたいから、デートしたり、プレゼントしたり、語り合ったりするわけでし、友達とつながっていたいから遊びに行く約束や飲みに行く約束をしたりメールを送ったりするわけだし、恩師や先輩などお世話になった人とつながっていたいから年賀状や暑中お見舞いを出したり…。
 
愛するということは、私はあなたとつながっていたい、と思うことで、愛されるということは、私はあなたとつながっていたい。と思われること。だと俺は思う。
 
最近はここらあたりをごっちゃにしてる場面を多々見かける。
人気があることと、愛されることは、当たり前だけど同じじゃない。
 
ちなみに、
 
あいつとつながっていたらたくさん金が回ってくるからつながっていたい。
 
と思うのは“愛”ではない。
その場合、つながっていたいのは“お金”であって“その人”ではない。
 
本当に人を愛したら、その人がこの世にいてもあの世にいてもつながっていたいと思うもの。
だから、その人の言葉や、その人の教えや、その人との思い出は、その人がこの世にいなくなってもずっと心の中に残り続ける。
 
それと、例えばテレビに出てるアーティストでも、実際に会えなくてもその人の歌が好きで、その人とつながっていたいからCDを買ったりするわけだし…。
 
物でもそうだよね。
人気があるから。皆に自慢できるから。という理由で買ったものって大事にしないけど、自分が本当に好きで買った物って大事にするし、ずっと使い続けようって思うし、いつか壊れてしまったり手放すときが来ても、素敵な思い出はたくさん残る。
 
人にせよ、物にせよ、趣味にせよ、そりゃ物理的な価値とかもあるんだろうけど、本当の意味での価値って素敵な思い出が残ったかどうかで決まるんじゃないかな~と俺としては思う。
 
少なくとも俺は、自分がつながっていたいと思う人とはたくさん素敵な思い出があるし、自分が好きで選んだ物にもとても素敵な思い出がある。
 
食べられることが“自由”なら、俺には自由がある。
 
安らかに眠れることが“平和”なら、俺には平和がある。
 
つながっていたいと思うことが愛なら、俺には“愛”がある。
 
そう考えたら、俺は幸せ者なのかもね☆彡
ま、“幸せ”については、まだ探求中なんだけど。
でも、こういうことを考える時間があるってことが、もしかしたら“幸せ”なのかもね。
 
それが正解かどうかってことよりも、自分なりの答えなり考えなりを持ってる事の方が大切だと俺は思う。
 
だから、考えることって大事だと思うんだよね。
 
愛とか幸せとかをわかってる“つもり”で生きてる人を見てると、心底そう思う。

2018年5月16日 (水)

バイクブーム?

俺よりちょっと年上の職場の人が、今、バイクの中型免許を取るために教習所に通っている。
で、今度卒検だそうだ。

このことに触発されてか?
職場の人にバイクの購入を考えはじめた人が何人かおられる。

そーいや中免持ってた人が、いつの間にか限定解除してたりしてたな~。
その方は50代なのだが、次バイクを買うとしたら多分一生で最後になるだろうから、次買うとしたらナナハンが欲しい。
とおっしゃられている。

今は1リッターオーバーのバイクも珍しくないが、その方が若い頃は、ナナハン(750cc)が最高クラスで、憧れだったらしい。

あと、俺よりちょっと下の同僚も大型免許を持ってて、たまにバイクをレンタルして、友達とツーリングしているらしい。
この子も、バイクを買うかもしれないというう噂が立っている(笑)

これから免許を取る人、ナナハン乗るために限定解除した人、バイクレンタルしてツーリングを楽しんでる人…この人たち全員がバイク買ったら…楽しいことになるだろうな~♪

でも、今教習所通ってる人は、今度転勤で他所の職場に行ってしまう…。
くそ~…どんなバイク買うか見たかったのに…。
でも、連絡をくれるらしいから、その連絡を楽しみにしておこう♪

これから新しいことを始めようとする人とか、若い頃に憧れた物を手に入れようとしている人とか、こういう話を聴くと、元気が出る♪

2018年5月13日 (日)

とても素晴らしい

すごく綺麗

とか

すごいかっこいい

とか

すごい面白い

と言うよりも

とても綺麗

とか

とてもかっこいい

とか

とても面白い
と言う方が……好き☆彡

あくまで個人的な見解だが、“すごい”ってなんか、節操がない…もっと言えば子どもっぽい…ような気がするし…。

“とても”の方が、品がいいというか、響きがいい。と、個人的には思っている。

もう一つ言うと、“素晴らしい”と思ったことに対して“すごい”で済ませるのも好きじゃない。

そもそも“すごい”だけでは、それが良い意味ですごいのか、それとも悪い意味ですごいのかがわからない。

例えば

あのアーティストはすごい!

と言われても、すごく上手なのか、それともすごく下手なのかわからない。

ま、大抵の場合、下手なときは

すごく下手だ。

と言われるのでわかるんだけど…それでも俺は、素晴らしいものは素晴らしいと言いたい。

言葉を並べればいいってものんでもないけど、本当に感動したものを

すごい

とか

いいですね~

などの一言で済ませるのもどうかと思うし。

“すごい”とか“いい”と違って、“とても”は、その後に何か言葉をつけなけらば意味が伝わらないけど、それでも俺は…とてもの方が好き☆彡

それに、俺にとって大事なのは、それが“すごい”かどうかじゃなく、“素晴らしい”かどうかだから…。

すごい人や、いい人、はいくらでもいるけど、素晴らしい人はそんなにはいない。

すごい人の例を挙げれば、売れてるお笑い芸人とか、タレントとか、人からお金をだまし取る詐欺師だって…“すごい”。

いい人はどこにでもいるし…むしろ悪い人の方が珍しい…

そんな人たちと、素晴らしい人を一緒くたにはしたくない。

だから俺は、素晴らしさに対しては“素晴らしい”と言いたいし、より素敵だと感じたことに対しては“とても”を使いたい。

全国的に名前が知れていたり、日本一とか世界一などの栄誉に輝いてたり、フェラーリとかロマネコンティとかロレックスとかを買える人は確かに“すごい”人ではある。

だけど、“素晴らしい”かどうかとなると、話は別だ。

“すごさ”を見せつけてちやほやされようとしてる人は、結局人の心に残らない場合がほとんどだしな…。

2018年5月12日 (土)

いじりについて思う事

いつか、EテレでやってるハートネットTVでSOJIハラが取り上げられてた。
 
SOJIとは、セクシャルオリエンテーションジェンダーアイデンティティの略らしい。
 
よーするに、LGBTの人たちを小馬鹿にすること、の事らしい…と俺は認識している。
 
もっと簡単に言うと…LGBTいじり、といったところか?
 
俺はLGBTではないが、いじられて嫌な思いをしてる人の気持ちはyとてもよくわかる。
 
俺もよくいじられるからな~。
 
俺の何がよくいじられるのか?をいくつか挙げると…S2000乗ってたり、プラモやってたり、写真やってたり天文クラブに入ったりしてると、いろんなことを言われる。
 
俺が思うに…自分が楽しむために他人をいじった時点でそれは“ハラスメント”だと思う。
 
例えば
 
あの車もう売ったほうがいんじゃない?買い手探してきてやるよ。
 
とか
 
プラモばっかりやってたら性格暗くなるよ。もっと社交的な趣味やったら?
 
とか
 
パンチラとか撮っとんじゃろ?
 
とか
 
望遠鏡で見てるのは本当に星?
 
とか、その時は作り笑いでしのぐけど、本当はかなりむかついている。
 
スポーツカーを所有したことの無い人に、プラモを本気で作ったことの無い人に、写真を本気でやったこと無い人に、望遠鏡で星を見たことの無い人に、何がわかる?
 
“それ”に触れたことの無いくせに、勝手なイメージであれこれ言うな!
 
お前ら自分に何もないから人の事をいじるしか能がないんだろーがボケ!
 
ま、こんな感じだ。
 
俺からしたら、興味本位で人のことをいじるのは、とても恥ずかしくてみっともないことだ。
 
場をもっていきたいなら自分自身で勝負するべき。なのに場をもっていくために人をいじるのは、結局は自分に何もないからだ。
 
つまりは、自分は何もない人間です。
 
とアピールしてるのと同じだ。
 
だから、人をいじるのはとてもみっともなくて恥ずかしいのだ。
 
実際、人をいじってる人には、節操のない人、無知な人、無分別な人、芯が無い人、が多い。
 
見た目いじり、趣味いじり、持ち物いじり、性的趣向いじり…いじりにもいろいろあるけど、目的はどれも、人をネタにして笑いを取る。であると俺は思う。
 
本来なら、いじってる側が嘲笑の的になるべきなのだが、今はなぜか、いじられてる人が嘲笑の的となってしまっている。
 
人をいじることって本来はみっともないことのはずなのに、今はそれが“面白い”とされている。
 
何が面白いかってことは時代によって変わるから、俺の考え方が古いと言われればそれまでだ。
 
でも俺は、人をいじって笑いをとるくらいなら、“古い考え方”のままで結構だ。
 
人いじりってそんなに楽しい?面白い?
 
笑いをとるために人をいじるのって、それは本当に許されること?
 
人をいじって笑いをとってる人がいるということは、いじられて笑われてる人がいるということだ。
 
そこのところは絶対に忘れてはならない。
 
いじってる側の言葉の派手さより、いじられてる人がどんな気持ちかを考えるべきだと、俺は思う。
 
極端な考え方かも知れないが、いじり=ハラスメントだと俺は思う。
 
それにしても、SOJIにせよ、LGBTにせよ…難解な言い方だよな…ちょっとわかりやすい言い方ってないのかな~。

2018年5月10日 (木)

人間回復の橋

今年は邑久長島大橋が架かって39周年だそうで。昨日、テレビで特番が組まれていた。
ま、地方局(RSK)での放送だろうから岡山周辺のみでの放送だろうがそれはさておき…。

瀬戸内市邑久町の南の方にある長島は、ハンセン病患者が隔離された島である。
その長島に、30年前架けられたのが、邑久長島大橋である。

大橋と言っても、たったの30mしかない。
でも、このたった30mの橋をかけるのに、とても長い時間がかかった。

この邑久長島大橋が架けられたことは、ハンセン病患者の方々の隔離から解放されることを意味する。
そのことから、邑久長島大橋は、人間回復の橋、とも呼ばれているそうだ。

ま、ここまでのことは知っていた。
過去に訪れたことがあるから。

番組の中で印象的だったのは、ハンセン病患者の方々の言葉だ。

その中の

橋は自分たちを裏切らなかったんだから、自分も橋を裏切れない。

という言葉が特に印象に残った。

人間回復の橋ということは、自分はこれからは、この橋に恥じないよう、一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなくてはいけない。
そういう思いのこもった言葉だったのだが…俺はこの言葉を聞いて、

なんていう人だ…。

と思った。

ハンセン病患者の方々は、差別をされた側の人たちである。
つまりは被害者である。

この橋が架かることによって、一人の人として恥ずかしくないような生き方をすべきなのは、差別をしていた側の人たちではないのか?

人間回復の橋は、ハンセン病患者の方々が人としての尊厳を取り戻すための橋であると同時に、差別をしていた側の人たちが、“人”として、二度とこのような差別をしてはならないという意味も含まれているように俺は思う。

ハンセン病患者の方々に対するあのような扱いは、まともな“人”のやることではない。と思うから…。

人間として“回復”しなければならないのは、差別を受けていた側では無くて、差別をしていた側の方のように思う。

それなのに、ハンセン病の方の方が

一人の人間として恥ずかしくない生き方をしなければならない。

と言ったのには、人として認められたことに対する責任を強く感じた…。

人は障害者とか、大きな病気をかかえた人を見ると、すぐに

かわいそう

などという。
でも、どうなんだろうな~。
自分の足で歩けることや、自分の手で触れられることや、自分の目で見られることや、自分の耳で聴けることや、“人”として生きていること…それらのことの素晴らしさに気付けない人の方が、よっぽど“かわいそう”なように思う。

例え自分の足で歩けなくても、自分の足で歩けることを素晴らしいと思える人は、幸せだと思う。

実際に素晴らしい物を持ってても、その素晴らしさに気付けないことはとても不幸なことだと思うから…。

人は、自分とは違う人を一括りにしたがる。

障害者、であったり、ハゲ、であったり、デブ、であったり…。
そうやって、自分が持ってるモノを持ってない人を揶揄することこそ“差別”なんじゃないかな~。

少なくとも、俺の中では“ハゲ”とか“デブ”は差別用語だ。

名前を知ってる人の事は名前で呼ぶべきだし、名前を知らない人に対しても、安易に身体的特徴とか年齢とか性別で指差すものじゃないと思う。

あそこにいるデブ、とか、あのねーちゃん、とか、あのガキとか、あのババアとか…。

人にはそれぞれ名前があって、それぞれに尊厳がある。
その尊厳を傷つけるような言葉は…使わないように心がけたい。

それにしても、俺が邑久町長島について知ったのは、大人になってからだった。
岡山に住んでても、誰もハンセン病のことは教えてくれなかった。
こういう事こそ、学校が積極的に伝えていくべきだと思う。
今の教育は、そのあたりはどうなんだろうな~…。