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2010年9月

2010年9月20日 (月)

悪魔にされた・・・

山羊座のモチーフとなっている牧神パーンはとても陽気なニンフ(妖精みたいなもん)である。

いつも芦で作った笛を吹いたりして森で陽気に暮らしている。

その山羊座のパーンが・・・いつしか「悪魔」にされてしまった。

と、言うのも、キリスト教の宣教師達にとって、布教活動するに当たってキリスト教以外の宗教や神に「悪者」になってもらう必要があったからだ。

だから悪魔には、山羊のような角が生えているのだ。

キリスト教の勢力拡大によって、森で楽しく暮らしてただけなのに悪魔にされてしまった牧神パーン・・・

もう一つ。

英雄ペルセウスが持っている盾には、見たもの全てを石に変えてしまうと言う化物、メドゥーサの首がつけられている。

このメドゥーサは、元は美しい少女だった。

ある日、メドゥーサはアテナの神殿に行く。

そこでメドゥーサの姿を見かけた海神ポセイドンは・・・自分の欲望のままにメドゥーサの処女を奪ってしまう。

自分の神殿を血で汚された女神アテナはメドゥーサに呪いをかけ、髪の毛が蛇と言う化物に変えてしまったのだ。

てか・・・メドゥーサは被害者なんだから、罰せられるのはポセイドンの方だと思うんだが・・・それはさておき・・・

もうひとつの説は、メドゥーサが自分の髪の美しさを自慢したため、アテナに呪いをかけられた、と言うのもある。

そしてメドゥーサは二人の姉と(その姉二人も化物)洞窟で暮らしていた。

見た者を石にしてしまうと言う恐ろしい力を持ってはいるが、その力を使って人々を困らせていたわけでは無い。

ただそこで三姉妹で暮らしていただけなのに、ある日やって来たペルセウスに首をはねられ命を奪われてしまう・・・

ポセイドンに処女を奪われ、呪いをかけられ、悪いことをして無いのに命を奪われるメドゥーサ・・・

このメドゥーサの物語も実際に起こった出来事とリンクしているんじゃないか?とも言われている・・・

アテナかどっかの地方が、他の地方を侵略し、その領地を奪った際、その侵略された方の土地を治めていたのが女王で、それがメドゥーサのモデルになっていると・・・

だからポセイドンにカラダを奪われたり、アテナに呪いをかけられて、ペルセウスに首をはねられると言う無惨な最期を遂げるのだと・・・

悪魔とかメドゥーサとか言うと、何やら恐ろしい者と思われがちだ。

でも、彼らは別に悪いことをしたからそうなったのではなくて、勢力争いに負けたからそうなってるだけなんだよね。

自分達と価値観とか宗教観が違うからといって、他の民族の神や王を悪魔とか化け物に仕立てあげて後世に伝えるのは非道なことだと思う。

ま~僕がそう思っても仕方が無いけど(笑)

悪魔と言うと悪い者と言うイメージがあるが、それはキリスト教徒が牧神パーンを勝手にそう仕立て上げただけである、と言うのを書いてて、まるでマスコミのようだと思った。

マスコミと言う奴らは、自分の都合のいいようなイメージを視聴者に刷り込もうとするからな。

ちょっとインパクトがあるだけでたいした実力も無い人をやたら人気者にしたてあげたり、面白くも無いお笑い芸人を面白いように見せかけたり、別にそこまで歌がうまくない新人を「大物」だとか言ってもてはやしたり・・・そして・・・マスコミの言うことを鵜呑みにする人がなんと多いことか・・・て今日はそんな話ではなくて・・・

山羊座も、メデューサ(メデューサはペルセウス座の一部である)も、秋の夜空に見上げることが出来る星座である。

もし、夜空を見上げることがあるなら、悪魔にされてしまったパーン、化け物にされて、哀れな最期を遂げたメデューサに思いをはせてみてはいかがでしょうか?

ちなみに、メデューサの首がはねられたところから、天馬ペガサスが生まれたと言う・・・
と言うわけでペガサスのお父さんはあのポセイドンなのだ。

・・・今日はメデューサとパーンの話しかしなかったが、秋の夜空はエチオピア王家にまつわる壮大な物語が展開されているのだ。

その物語は・・・気が向いたら語ろう・・・

ちょっと待て・・・パーンが悪魔にされたとしたら、小悪魔と言うのはパーンの小さいバージョンと言うことになってしまうではないか・・・

そのイメージをそのまんま持ってくると小悪魔系と言うのは、毛深くて、陽気で、ストーカー癖があって(彼はシュリンクスと言う女性のニンフを追い掛け回したりもした)、おまけにすぐ自慢したがる(俺の音楽の腕前はアポロンよりも上だ、と抜かしてアポロンと音楽勝負したこともある)・・・そんな・・・女の子・・・僕はやだな~

小悪魔系と言う言葉にパーンのイメージを持ってくるのはよそう(笑)

そんなわけで・・・小悪魔系の女の子は好きです(爆)

2010年9月18日 (土)

確かにそこにあるもの

夜空はどうして暗いのだろう?と言う話など・・・

それは、自分達の住んでいる場所が太陽の反対側になったら、太陽の光が届かなくなるから・・・と言うだけでは無い。

と言うのは、宇宙には無数の星(天体)が存在する。

我々が住んでる太陽系は天の川銀河と言う銀河に属していて、その天の川銀河だけでも約2000億個もの星(恒星)があると言われている。

まして宇宙には、そのような銀河が無数にあるのだ。

もし、その無数の星々の光が、何物にもさえぎられること無く全て地球に届いたとしたらどうだろう?

昼だろうと夜だろうと空はものすごく明るいに違いない。
どころか、宇宙には太陽よりも大きい天体、太陽よりも強い光を放っている星は無数にあるのだ。
その光が全て届いたら、地球はとても人間が住めるような環境には無い。

つまり、夜が暗いのは、太陽の反対側を向くという理由ともう一つ、宇宙には、星の光をさえぎるものがあるから、と言うのが挙げられる・・・らしい・・・

星の光をさえぎるものがあるから、遠くにある星の光ほど、届きにくいのだ。

だから、星の光の強さを表す時には、地球から見たときの見かけの明るさである「等級」と、星を同じ距離から見た場合の明るさである「絶対等級」と言うのがある。

例えば、同じ立ち位置から物を見る場合、原チャリと10トントラックなら、二つが同じ距離のところにあるならトラックの方が断然大きいけど、原チャリが目の前にあって、トラックが何10キロも先に離れたところにあったとしたら、見かけ原チャリの方が大きく見え、トラックの方が小さく見える。

まとめると、宇宙には星の光をさえぎるものがあるということと、明るい星ほど近くにあると言うわけではないと言う事だ。

で、その星の光をさえぎるものと言うのは、宇宙にただようチリとかガスとかである。

このチリとかガスが星と星の間を通るときにどんどん圧縮されて星となり、そしてその星が燃え尽き、爆発したときにはまたチリやガスが発生する。

宇宙を漂うチリやガスは、星の亡骸であり、また星の元でもあるのだ。

前置きはここまでにして・・・(長!!)

昨日の夜、僕は古本屋さんを巡っていた。
で・・・とても懐かしい歌を収録されたアルバムを見つけた☆他にも自分の欲しかったものが2枚、計3枚の掘り出し物を見つけてラッキーだった☆

で、その懐かしい歌と言うのはエコーズと言うバンドの「ステラ」と、「JACK」と言う歌だ。

ま~懐かしいといってもYOUTUBEで聞いたりはしているのだが・・・この歌を車の中で聞くのは10年以上振りだ。

その、ステラと言う歌にこんな歌詞がある。

街にうずもれてる 輝けないスターダスト 待ってるだけじゃ 誰も振り向かない

自分の存在を認めてほしいくせに、何も行動する勇気を持てない自分・・・誰かが声をかけてくれることばかりひたすら待ち続けてた自分と、この歌の主人公が重なって見えた。

あの頃乗ってたのは逆輸入のシビックのクーペで、CDなんて付いてなくて、カセットデッキだったっけな・・・
でも、スピーカーはアコースティックリサーチと言う会社のがついていたらしく、音はよかったらしい・・・と本に書いてあった。(自分じゃよくわかんなかったけど(笑))

それはさておき・・・シビックの中でノイズ混じりのカセットテープで聞いてた歌を、今はS2000のCDプレーヤーで聞いている。

毎日が息苦しかったあの頃の歌を、10年以上経った今、幸せを手にした自分がこうしてまた聞いているのはなんともこそばゆい気持ちである(笑)

今は輝いていないけど、いつか輝ける日を夢見て宇宙空間をただよっているガスやチリ・・・地球からは見えないけど、彼らは確かにそこに存在している。

街にうずもれてる 輝けないスターダスト と言う表現はそう考えるとうまいこと言うな~と思う。

目に見えなくても確かに存在するチリやガスのように、多くの人が意識してなくても確かに「自分」はここに存在しているのだから・・・

地球まで光を届けられる天体は、宇宙全体で見ればホンの一握りに過ぎない。

アイドルや一流のプロスポーツ選手を「アイドルスター」とか「スター選手」と呼ぶけど・・・こういうことを考えればうまいこと言うな~と思う。

それにしても・・・作家の辻仁成を知ってる人は多いけど、エコーズのボーカルとしての辻仁成を知ってる人って・・・案外少ないのね・・・

完成度が高いとか低いとかはさておき、初めてのマイカーの中で聞いてた歌ってのは・・・僕にとっては特別なんだよな・・・

・・・読み直して見るとわけのわからない文章だなこれ・・・でもま、せっかく書いたんだから投稿しようか♪

2010年9月17日 (金)

話が出来たら・・・

「動物と話が出来たらいいのにな~」と言う人は多いと思う。

自分の飼っている動物と話が出来れば、もっと仲良くなれてもっと楽しい毎日が送れるに違いない・・・そう思う人は多い・・・

でも・・・果たしてそうだろうか?

自分の飼っている犬と直接会話が出来たとして、もしその犬が

「俺はこんな家出て行きたい」とか「故郷に帰りたい」とか言い出したら、ほとんどの飼い主はその希望を叶えてやる事なんて出来ないだろう。

もし盲導犬が「自分も他の犬みたいにのんびり暮らしたい。正直この仕事は辛い」とか言い出しでもしたら?

それに・・・ペットショップの動物達の声と言うのは、多分だけど

「こんな狭いとこ嫌だ。」

とか

「お母さんどこにいるの?」

とか、そういう悲痛な叫びがほとんどのはずだ。

他にも、動物園の動物や、殺される運命にある家畜動物達の声とか・・・う~ん・・・考えるだけで胸がしめつけられる気がする・・・

僕が好きな漫画にこんなようなセリフがある。

「人間に僕(猫)たちの気持ちが伝わるのなら、どうして人間は僕たちを捨てたりするのさ!?僕たちが捨てないでって言ったら、捨てないの!?」

とか

「人間に飼われている状態が動物達にとって一番幸せだとでもお前は思っているのか?人間の思い上がりもいい加減にしたらどうだ?」

・・・もちろん、これは動物達を通じてこの漫画の作者が読者に問いかけたかったことなのだが・・・

動物達の幸せ・・・か・・・

人間に飼われている犬は、自然に放たれれても、エサを見つけられずにすぐに餓死してしまうらしい。

でも、わずか数日でも自由に大地を走り回る一生と、不自由なく長生きできるけど、紐につながれたままで一生を送るのとでは・・・動物達にとってどちらの方が幸せかなんて我々人間にはわかりっこない。

人間に飼われている状態が動物達にとって一番の幸せと言えない以上、動物を「飼ってやっている」「世話してやっている」と言う意識は決して持ってはいけないと思う。

人間が動物を飼うのは、動物を幸せにするためではなく、「人間の幸せ」のためであるのが一番の理由である。

牛や豚を飼うのは、人間が食べるため、動物園で動物を飼うのは人間の見世物にするため、家で動物を飼うのは人間の癒しのため・・・我々が動物を幸せにしてあげているのではなく、動物が我々を幸せにしてくれている・・・動物を飼うのであれば、そういう意識は常に持っていたい。

話が逸れたが・・・

と言うわけで、動物と会話が出来てしまうと、お互い幸せになるどころか、摩擦が大きくなるだけのような気がする・・・

もし肉牛が「食べないで欲しいモ~」と言っても、人間は食べてしまうだろうから。

それに・・・犬と散歩中にミニスカのねーちゃんが前から歩いて来たら、首輪にでもCCDカメラをつけて

「ちょっと覗いて来い」

「ラジャー☆」

と言うようなことも出来てしまうしな・・・(われながらろくでもない発想・・・)

余談だが、なんかの本で、車の評論家だったかテストドライバーだったかが

「この車はもっとアクセルを踏め!と挑発してくる」

と言うことを書いてるのを読んだことがあるが・・・

そんなことってあるのかな~・・・

少なくとも、僕は今までそんな風に感じたことはない。

女性に露出度の高い服などで挑発されるのは大歓迎だけど、車に挑発されるのは勘弁だな(笑)

てか、車と会話が出来たら嫌だろうな~

・・・へたくそとか、もっと丁寧に扱えとか、洗車はマメにしろとか、いろいろ文句を言われそうだ(爆)

2010年9月16日 (木)

意味

昨日、MAXがテレビに出ていたが・・・

ちなみにMAX渡辺の事ではなくて四人組のダンスユニットの方ね☆
(MAX渡辺って誰?と言う突っ込みは受け付けない(笑))
彼女らの歌に「トラトラトラ」と言うのがある。

この歌はけっこう流行って、当時の中高生は踊ったりしていたらしいが・・・

その中で、「トラトラトラ」の意味を知っている人がいったいどのくらいいるのだろう?と思うと、少々複雑である。

しかも、彼女らは、第二次世界大戦で壮絶な陸上戦が繰り広げられた、そして、特に今、基地問題で揺れている沖縄出身である。

沖縄出身の彼女らに、このタイトルの歌を歌わせるのには・・・首を傾げてしまう・・・

この言葉の本来の意味を知らない事を罪だとは思わない。
てか、ふつ~に生活していたら、しかも女の子であれば知らないのが当たり前だ。

でも、この歌を作った方はきっとこの言葉の意味を知っているはず。

知っていて沖縄出身の彼女らにこの歌を歌わせるのは・・・ちょっと人間としてどうかな~
と僕は思う。

例えば

あなたのハートを恋の炎で燃やしたい

と言うのを

あなたのハートに焼夷弾を落として燃やしたい

と言ったとしたら多くの人は眉をひそめるのではないだろうか?

この歌のタイトルにはそれと同じような意味合いが感じられる。

ただ、焼夷弾と言う言葉を使っちゃうと逃げ道は無いけど、トラトラトラだといくらでも言い訳は出来るか。

ただの掛け声なんですよと言われたらそれまでだし・・・絶対そうじゃないにしても・・・

ま、この歌が出たのはだいぶ前の話だし、可愛い女の子がセクシーな振り付けで歌ってるんだからそれでいいじゃんと言われたら・・・その通りなんだけどね☆


ちなみに「トラトラトラ」とは「我 真珠湾攻撃に 成功せり」と言う旧日本軍の暗号である。

第二次世界大戦の口火を切ったこの言葉をポップスのタイトルに使うことに僕は疑問を感じるのだ。

でも・・・
この歌のタイトルについて発売当時何も突っ込まれなかったって事は・・・別になんでもないことなのかな・・・気にする方がどうかしてるのかな・・・

ま、僕だってこの言葉の意味を知ってたのはたまたまだしな。

知らなかったら、「あ~~僕もあんな娘に狙い撃ちされたい☆」と思ってたに違いない

2010年9月15日 (水)

鮭のルビー

ふと思い出した事がある。

自分がどうして「命」について考えるようになったのか?そのきっかけについてだ。

一つは、時々日記にも書いているが「はだしのゲン」もう一つは・・・その本のタイトルは忘れたが、「鮭のルビー」の物語だ。

ルビーと名付けられた鮭が、卵から産まれ出て川をくだり海へ出て、大人になって産まれ故郷の川に帰って卵を産んで力尽きるまでの物語なのだが・・・

その間、様々な苦難が待ち受ける。

その苦難は卵の時から始まる。

お母さんは命がけでたくさんの卵を産むのだが、その全部が無事にかえるわけではない。

正確な数は忘れたが、けっこうたくさんの数が卵から産まれる前に食べられてしまう。

そして産まれたばかりの稚魚もまたその多くは食べられてしまう。

川を下る途中も鳥とかなんとかに食べられ、無事に海へと出られる者は多く無い。

そして、産卵の為に故郷の川に帰る時も、流れの早い川を上りきれずに力尽きる者、クマとか人間に捕まえられてしまう者などがいて、最初産まれた卵の数に比べたら、故郷の川までたどり着けるのはホンのわずかだ。

そして鮭達は最後の力を振り絞り、川底の石を尾で跳ね除けるなどして、そこに卵を産み落とすのだ。

卵を産んだ後、鮭は力尽きる。

その骸は、他の生き物に食べられたり、もしくは自分の子ども達に食べられて、命をつなぐ糧となるのだ。

と言うような物語だったと思うが・・・

多分・・・一番最初に命の大切さと言うのを意識し始めたのはこの本を読んだくらいからだと思う。(はだしのゲンを読んだのはある程度大きくなってからだし・・・)

普通に食卓に並ぶ魚は、こんな風にして大人になっているんだな、それを、自分達はいただいてるんだな、と言う思いから、食べ物を大切にするようになったと思う。

だから僕は、出された物は残さず食べるように心がけるようになった。

それは今でもだ。

でも、それが原因でバカにされることもある。

会社の人たちとの飲みの席とかで、あまりおいしくなくて皆が手をつけないようなものでも僕がたいらげるからだ。もちろん限度はあるが、居酒屋とかなら大体全部食べられる。

どんなまずいものでも食べてしまう、味のわからない奴、そう思われていたりもする。

僕だって、好きなものがあれば嫌いなものもあるし、おいしいと感じるものもあれば、まずいと感じるものもある。

でも、それよりも、自分の目の前にある料理が、どういう過程を経てこのテーブルの上に並んでいるのか?
それを考えると・・・とても粗末には出来ないのだ。

味オンチと言いたきゃ言えばいい。
おいしいかまずいかよりも大切なことがある。
僕はただ、そのことに気付いてるだけなのだからね。

そのことに気付けない人に、何を説いてもムダである。

それとは別の話で、「あそこのラーメンをうまいと感じるならどこのを食べても大丈夫じゃね?」
なんてことを言われたことがあるが・・・

僕がおいしいと感じたラーメンをまずいと感じるのはそりゃ勝手だ。
人には好みと言うものがあるのだから。

でもね・・・
その言い方はどうなんよ?

自分がおいしいと感じられなかったものは認めない、もしくは、自分の味覚が正しくて、お前の味覚は正しくないとでも言いたげなこの言い方は相当不愉快だった・・・言った本人に悪気は無いんだろうけど。

それ以来、自分のお勧めの店をこいつに紹介するのはやめたのであった。

話が逸れたが・・・

卵からかえることなく食べられてしまう卵に、生まれてきた意味なんてあるのか?
と言うことを考えたとき、「そいつらがいたから、その兄弟姉妹が食べられずに済むんじゃないか」と言う答えもあるだろう。

でも・・・母親は多分そんなつもりでたくさんの卵を産んでないはずだ。

全ての卵に、無事にかえって、大人になってこの川に帰ってきて欲しい・・・そういう思いで命懸けで卵を産んでいるはずだ。

犠牲になってもいい卵なんて、ひとつとして無いはずだ。

卵であろうと稚魚であろうと成魚であろうと、ひとつの命に変わりは無い。

稚魚が食べられるのは可哀想で、卵が食べられるのは可哀想なんて事は決して無い。

そう・・・「妊娠数週間のそれ」と言うタイトルの日記を書いてたとき、どうもそのことがひっかかったのだ。

妊娠して間の無い胎児は命では無いという考え方は、鮭が命懸けで産み落とした卵は命では無いと言ってるのと同じではないか。

鮭が卵を産むのが命懸けなら、妊娠してお腹の中で子どもを育むのも命懸けだ。

たった数週間でも、命懸けで育てた命は尊いものなのだ・・・とこの話を思い出して改めて思った。

で、卵のまま、もしくは、母親のお腹の中で亡くなってしまう命が存在する意味とは???

う~~ん・・・ある程度形は見えてきてるんだけど、まだきちんとは見えてきてないんだよな・・・

てか、見えてきても多分ブログとかで語ることは無い。・・・それは自分の胸のウチにそっとしまっておくべきもの、語るとしたら、自分にとって本当に大切な人たちにのみ・・・かな・・・

2010年9月13日 (月)

犬島へ☆

昨日一昨日と、天文クラブの集まりがあった。

犬島の自然の家で、泊まりがけの星空観望会に皆で行って来たのだ。

とても楽しくて、とても癒される時間だった☆

潮風は気持ちよく、潮騒も耳に心地よい♪

犬島は車がほとんど走ってないからとても静かなのだ。

夕方に島について、自然の家に荷物を置いた後、近くの食堂にご飯を食べに行った。

ここのおばちゃんがとても親切で、いろいろ面白い話を聞かせてもらった。
ご飯もおいしかったし♪

自然の家に帰ってから、風呂に入った。

それから屋上の観測室で星空を見た。

ここの望遠鏡はすげー高い・・・らしい・・・

1000万とか2000万とか言ってたよーな・・・そんなのが二つと、双眼鏡の大きいのも一つあった。

僕らのクラブには、天文を仕事にしている人がいて、その人に話をつけてもらってそこの望遠鏡を好きなだけ使わせてもらえることになっていた♪

夜の九時までは他の一般のお客さんと一緒に見て、それ以降は僕らだけで自由に・・・と言う話だったのだが・・・

九時を過ぎても、なかなか一般のお客さんが途絶えない・・・

と言うのも、望遠鏡を覗いてはクラブの人に宇宙についての質問をし、クラブの人が丁寧にその質問に答えているからだ。

自然の家にももちろんスタッフの方がおられるのだが、宇宙の事ばかりを専門にされてるわけでは無いので、宇宙の知識はクラブの人たちの方が深い。

だから「もうあなた方にお任せします。こちらも勉強させていただきます☆」と聞き手の方に回っていた。

星雲とは何か?銀河とは何か?ブラックホールについてなどなど、聞く方も熱心なら答える方も熱心だった。

星座神話に関する質問は無かったので僕の出る幕はなかったが(爆)

それはさておき、けっこうみんな宇宙の事に興味あるんだ・・・と思った。

一般のお客さんは若い、大学生くらいの人たちが多かったけど、言葉使いも丁寧だし、よく言われるような宇宙人みたいな人はいなかった。

休みの日にわざわざ犬島にアート(今、瀬戸内の島々で国際芸術祭をやっている)を見に行こうと言う若者には素直な人が多いのかな☆

聞く方も答える方もいきいきしてたな~

そんなわけで、すごく楽しい観望会だった☆

てか、あの人たち・・・絶対自然の家の職員だと間違われてるな・・・(苦笑)

で、次の日はアートとか見て歩いたんだけど・・・こちらはさっぱり意味がわからなかった(苦笑)

でもあれを見に、わざわざ遠方から来る人も多いんだよな・・・

それはさておき・・・

犬島は、今は瀬戸内芸術祭をやっているが、それが無かったら本当に何も無い島だ。

目を見張るような大自然もなければ、面白い施設があるわけでもない(僕らにとってはあの観測施設は面白い施設だが)
コンビニなんてもちろん無いし、ものすごくおいしい料理が食べられるお店も無いし、島の名物とか、犬島でしか買えないお土産があるわけでもない。

でも、車の音はほとんどしないし、何よりすごく静かなところだ。

島の人は親切だし、なんていうか、多分そういう名所とかそんなのが無いから、そこまでの観光化がされてないから癒されるんだろうな~

日ごろの喧騒を離れて、一日何もせずにのんびり自分を見つめなおすにはすごくいい場所だと思う。

車も通らないし、ごみがぽい捨てされてるのも見ない。

ごみがポイ捨てされてるのが当たり前の生活、マナーの悪いドライバーにむかむかしながらの毎日を送ってる人には、ただ道を歩いてるだけで癒される島だと思う。

ものすごくおいしい料理が食べられるわけでもないとは言ったものの、その島の食堂のおばちゃんの料理はやっぱりおいしかった☆

普通の奥さんが、ちょっと頑張って作った料理だと言われれば・・・そのとおりだ。

でも、たとえ商売とは言え、僕らをもてなしてくれようとする気持ちがすごく伝わってきた。
てか・・・あの内容で・・・晩御飯1500円、朝ごはん450円で・・・儲けあるのか???しかもおかわり自由で、飲み物の持ち込みもなんと自由である。
なんともあったかい雰囲気の食堂だった☆

その逆に、日曜の昼ごはんを食べに入った、多分芸術祭の間だけやってると思われるカフェは最悪だった・・・
普通は店に入ったら水を持ってくるものだが、なかなか持ってこない。

「この店は水は出さないお店なのか?」

と内心思ったのだが、カレーを半分くらい食べたくらいの時に天文クラブのメンバーの人が

「あの~水は?」

と店の人に尋ねたら、帰ってきた返事は

「いられるんですか?」
だった・・・

おいおい、出すんなら最初から出せよ・・・

他にもいろいろ店のサービスがどうこう以前のこともいろいろとあった・・・

最初によった食堂ほどあったかい雰囲気のお店もなかなか無いが、このカフェほどサービスの行き届いてない店もなかなか無い・・・

余談だが、店のおばちゃんにいろいろと犬島のことを聞いた。

その中で、自然の家のことについても話してくれた。

犬島自然の家は、元は小学校だった建物を利用して作られているのだが・・・

最初、島の人たちは、この元小学校を、養老院にして欲しいと市にお願いしたそうだ。

年をとって、自分のことが自分で出来なくなっても、島で生活できるようにとの思いがあって・・・
現に、体を悪くして、島の外での生活を余儀なくされる方もおられるそうだ。

でも、それは出来ないと言われた。

なぜか?

それは、小学校と言うのは、文部省の管轄であり、厚生労働省が管轄する養老院とか、老人ホームに作り変えることは出来ないという、なんともバカバカし過ぎる理由である。

島の住民の意見よりも、縄張り争いの方が大事とはね。

そーいやなんかの災害の時に、厚生労働省の人が「小学校をなんとか利用できないか?」みたいなことを言ったら、文部省の人がウチの縄張りを荒らすな!みたいな感じで噛み付いたこともあるらしい。

所詮は縦割り社会か・・・

で、その自然の家はすごい赤字らしい・・・

その施設で星空観望会を楽しんだ僕らとしては、ちょっと複雑な気持ちであった。

それともうひとつ。

これはまた別のところで聞いた話だが、昔、犬島で西部警察のロケがあった。

爆発シーンとかなんとかいろいろ撮影したそうなのだが・・・

その際、番組のスタッフは、後片付けなど一切せずに帰ったらしい。

そーいや、また別の番組では、ある観光地で、テレビ局の人が偉そうに観光客を

「どけ!どけ!」
と押しのけながら歩いていたと言う話も聞いたことがある。

この土地で撮影させてもらってる、と言うよりは、ここをロケ地に使ってやっていると言う傲慢な気持ちなんだろう。

一度西大寺の裸祭りを見に行ったときも、周りのことなんか気にもしないでテレビカメラ片手に走り回ってる奴もいたな・・・

人に嫌な思いをさせるような撮り方をする奴、後片付けもろくにしない奴は・・・とてもプロとは呼べないと思う。

2010年9月12日 (日)

妊娠数週間の「それ」

しつこくふるさと発について書いてるが・・・

ま、昨日に引き続き番組見感想をだらだら書いただけなので読むなら暇な人だけにしてください(笑)

これ昨日書こうと思ってやめたネタなんだが・・・

昨日ふるさと発の再放送見ていてなんとな~く気が変わった(笑)

その、不育症の話の中で、ある夫婦のあるエピソードが紹介されていた。

ご主人は、奥さんを元気付けようとして、奥さんが流産をするたびにある言葉をかけていた。

流産を四回繰り返してしまった時、ついに奥さんはその言葉に怒って自分の思いを爆発させる。

そのことによって、二人で命の大切さについて考えるようになり、二人共に理解しあえて、子どもも無事出産できてめでたしめでたしという話なのだが・・・

その、奥さんのお怒りを買った言葉と言うのは

「また産めばいいよ」

と言う言葉だった。

時間的制約もあったと思うだろうから、番組の中ではあんまりこの言葉について深くは突っ込まれてなかったが・・・

昨日、妻がもし流産を繰り返していたなら、僕でもなんて言葉をかけていいのかわからない、と語った。

その僕でも・・・あんまりな言い方だと思った・・・ま~だから番組で紹介したんだろうけど。

多分、旦那さんの感覚としては、流産すると言うのは、例えば試合に負けた人に対して「また次、頑張ればいいよ。」と言う風な意味でかけた言葉だと思うんだよね・・・

でも、番組内でその奥さんもおっしゃられてたように、流産すると言うことは、「命」が一つ失われると言うことなんだよね。

出産する側の奥さんには「次」の出産の機会があるけど、流産してしまった子どもは、二度と息を吹き返すことは無い・・・

この旦那さんは、なんていうのか、自分の奥さんが母親になると言う自分の「夢」をかなえることが出来なかったから悲しんで、落ち込んでると言う風に受け取ってしまったんだろうな(この夫婦には一人子どもがいたから正確には「二児の母になると言う夢」だけど)

でも、そうじゃなくて、てかそれもあるかもしれないけど、奥さんは自分のお腹に宿した子どもを守りきることが出来なかった、自分のせいで死なせてしまったと言う、赤ちゃんに対して申し訳ないという気持ちで悲しんでいた・・・

旦那さんは奥さんの悲しみの原因がどこにあるのかをよく把握してなかったのだ。

自分が「この人はこういうことで悲しんでいるにちがいない」と思って言葉をかけても、その見当が外れていたなら、相手をひどく傷つけることになってしまう。

そして、その相手は、その人に悪気が無いことがわかっているから、その言葉をかけられて自分がどう思ったかをなかなか伝えることが出来ない・・・

当たり前と言われりゃそれまでだが、人を元気付けるのはなかなか容易ではないな・・・

それが、命であるとか、体のことであるとなると尚更ね・・・

てか、この場合、元気付けると言う行為自体が間違いなんだよね。多分・・・

この場合、大事なことは、お腹の中の赤ちゃんの死を共に悲しむことだと思う。

やたらと元気出せ元気出せと励ます人よりも、自分と悲しみを共にしようとしている人の方が信頼できるパートナーと言えよう。

この夫婦は最後には悲しみを共有できるパートナーになれたんだけどね☆
ちなみに・・・ほとんどホスピス医、小澤竹俊医師の受け売りであります(笑)

それにしても・・・
女性にとっては妊娠数週間でも「命」で、世の中の男性のほとんどにとって、妊娠後数週間の「それ」は命ではないんだな・・・

今回のふるさと発で「また産めばいいよ」のエピソードを紹介したのは、男女の命に対する意識の差を伝えたかったんだろうな・・・

不育症の女性のための番組と言うよりは、不育症を知らない人たち・・・その中でも女性よりは男性に見てもらいたくて作った番組のように思えた。

2010年9月11日 (土)

85%

昨日、ふるさと発と言う番組を見ていた。

不育症の話題についてやっていた。

不育症と言うのはお腹のなかで胎児が育たない症状のことを言うらしい。

流産を繰りかえす女性はこの疑いが強いと言う。

実は・・・恥ずかしながら、この番組を見るまで不育症と言う言葉を知らなかった。

流産と言うのはそのときそのときのいろんな原因によってそうなるもので、そういう症状によって流産してしまう場合があると言うことをこの番組を見てはじめて知った・・・

無事に着床することができる体であるなら、子どもはお腹の中で育つものだ・・・たまに流産することはあっても、それはストレスとか無理な労働とかなんとかが原因であり、そういうことに気をつけていれば、子どもはいつかは生まれるものだ・・・と思っていたんだけど・・・

無事に着床しても、お腹の中で子どもが育ちにくい「不育症」なんてものがあるのか・・・

で、この不育症と言うのは非常にやっかいなものらしい。

どう厄介かと言うと、まず、その原因が多岐にわたるため、原因を特定するのが難しいこと。

そして、日本にはその専門医が少ないこと。

この二つが原因でなかなか早期発見が難しいらしい。

で、三つ目は・・・不育症の治療には保険が適用されないため、治療費は全額負担をしなければならないこと・・・

子どもを一人産むのに、普通の人よりも数十万円くらいのお金が余計にかかってしまうらしい。

そして・・・心のケアの問題も番組では指摘していた。

自分のせいでお腹の子を死なせてしまったと自分を責めてしまう女性・・・その妻になんとか言葉をかけようにも、なんて声をかけていいのかわからずに立ち尽くしてしまう夫・・・そんな夫には、妻は自分の心の内を打ち明けることが出来ずに、結局一人で抱え込んでしまうと言う悪循環・・・

そうだよなあ・・・僕でもそうなったらなんて言葉をかけていいのかわからない・・・

それでも・・・懸命に子どもを授かろうとする女性達の姿には心を打たれた。

流産を四回も五回も繰り返しても、どんなことをしてでもなんとか子どもを授かろうとする女性の姿に・・・

中でも自分で自分の太ももに血流をよくするための注射を打つ女性の姿に、母親になりたいと言う強い思いを感じた。

そして・・・子どもを無事に産んだ妻と、無事に産まれた子ども達に感謝の気持ちで一杯になった。

で、不育症の治療に保険を適用させようと言う動きがあることも番組では紹介していた。

流産を繰り返す女性が、不育症の治療を受けて無事に子どもを出産する確率は、85%にもなるらしい。
それを伝えるポスターを作成して、あちこちに張り出すらしい。

不育症の専門医は少ないと語ったけど、岡山とか倉敷の病院には、その専門医がいると言う。
・・・どの病院かは忘れたけど・・・(多分国立か、岡大・・・川崎医大とかだと思う・・・)

そういう意味では、岡山は子どもを育みやすい環境にあるのかも・・・

2010年9月10日 (金)

相手をどう見るかによって

ある番組でやってたのだが・・・

柔道と柔術の違いは、相手をどう見るかにあるという。

柔術は、試合の相手を「倒さなければならない敵」と見るそうで、だから礼は無く、相手をにらみつけるのだそうだ。

柔道は、試合の相手を「共に柔の道を歩く同志」と見るそうで、だから試合の前後には礼をするのだそうだ。

では、JUDOはどうか?確かに、試合の前後に礼をしているが、相手を「同志」として見ているだろうか?

金メダルを獲るために倒さなければならない相手、と見ているようにしか思えないのだが・・・

柔道の創始者のなんとか治五郎と言う人は、柔道をオリンピックの競技にすることを反対していたと言う・・・柔道とはそうやって順位をつけるものではないと・・・

そーいや・・・柔道とか剣道とかは「段」と言うのがある。

これが、ボクシングなど他の格闘技と大きく違うところではないだろうか?
あっちはランキングが何位とか、そういう表し方をする。

柔道や剣道が「自分の技がどのくらい磨かれたか?」と言う意味の「段」であるのに対し、ボクシングとかは「相手と比べて自分はどのくらいのところにいるか?」と言う意味の「ランキング」で表される。

でも、今は柔道、いや、JUDOにも世界ランクと言うのがあるらしい。

JUDOと言うのは、そういう意味ではどちらかと言うと柔術に近いのか?と思ってしまう。

自分の技が磨かれたことに喜んでいるのではなく、相手を負かして金メダルを獲れたことに喜んでいるところなどを見ると特に・・・

もちろん、日本選手が金メダルを獲ったことは素晴らしいと思うし、心から拍手を送りたい。

でも・・・やっぱりこれは、柔道では無いよな~と思うと、ちょっと複雑であった・・・

相手を負かすことに力を注ぐJUDOと、技を磨くことに力をそそぐ柔道・・・どっちがよくてどっちが悪いなんてことでは無くて、柔道とは違うな、と言うだけのお話でした。

さてさて、小沢さんと管さん、もしくは日本の各政党の皆さんは、お互いを「共に日本をよくしてく同志」と見ているか「叩き潰さなきゃならん相手」と見ているか?
もし後者なら・・・戦国時代とやってることはあまり変わらないんじゃないのかな~・・・ただ命のやり取りが無いだけで・・・とふと思った・・・

2010年9月 9日 (木)

1t

これはあくまで聞いた話だが・・・

例えばMR-Sの車両重量は1010㎏で、ヴィッツは丁度1000kgだが・・・

メーカー側がちょっと頑張れば1t切れそうじゃね?と傍目には思う。

これには裏があって、車両重量1tを切ると、払う重量税が少なくなる。
つまり・・・国から見れば入る「税収」が少なくなる。

それは税金を取り立てる側からしたら都合が悪いから、販売するときは1tを超えて販売するようにと、お国からのお達しがメーカーに伝えられてる・・・らしい。

で、1010kgのMR-Sをちょっと改造して軽くして990kgにしたら払う税金は減るのか?と言うとそんなことは無いらしい。

あくまで販売したときの重量の税金が取られるそうだ。

この話が本当だとすると・・・な~んか理不尽なものを感じる・・・

ここからは余談

ま、お前が気にしても仕方ないことと言われりゃそれまでよと言う話など・・・

昔の車って、バイアスタイヤのグリップ力に合わせてサスとかフレームとか作られてると思うんだけど、旧車乗ってる人って、バイアスタイヤをどこからか引っ張ってきて履かせてるのか、それとも、ラジアルタイヤを履かせているのか?
その場合、旧車のフレームはラジアルタイヤのグリップ力に耐えられるのか?ちょっと気になる・・・